哲学における記憶の問題 「哲学・記憶・過去」

記憶の問題の原型は、プラトンのうちにみいだすことができる。

プラトンは心のうちにある蝋(ろう)を考え、経験がその蝋に刻印されることを記憶とし、刻印されなかったり消えたりした場合を忘却とした。

また心を鳩(はと)小屋と考え、さまざまな鳥をとらえその鳩小屋に入れることを記憶とし、鳩小屋の鳥を手にとらえることを想起とした。

プラトンの蝋の比喩(ひゆ)、鳩小屋の比喩のうちに、いかにして過去の経験が保持されるのか、過去の想起とはいかなることか、についての困難な問題をみることができる。

過去が鳩小屋の中の鳥のようにそのままの形で残っており、それを手にとらえることが想起だとすれば、過去の想起は現在の知覚と区別できないことになる。

現在の知覚も外にいる鳥をとらえることなのだから、とらえられた鳥は想起と知覚との区別を与えることはできない。

過去がそのままの形で保持されるのではなく、鳩小屋の鳥が多少生気を失っていると考えるとしても、やはり現在の知覚と区別されないだろう。

生気のない鳥をとらえるような現在の知覚もあるし、逆に生き生きとした記憶もあるのだから。

それに対し過去が鳩小屋の鳥のようにそれ自体が保持されるのではなく、記憶を蝋の比喩のように過去の写しと考えることができる。

しかし想起とは、過去の写しをあたかも過去に撮った写真のようにみて、それを通して過去を想起するのではなく、過去そのものに直接にかかわることである。

しかも過去の写しが「過去」の写しという意味をもつためには、その原型である過去をなんらかの仕方で知っていなければならない。

それゆえ想起とは過去そのものにかかわること、過去そのものに達することと考えねばならない。

思い出せないという忘却も過去との欠如的なかかわりであるがゆえに、想起によって過去へと開かれていることを前提にしている。

さらに記憶は現在の経験、知識を可能にするものとして哲学の問題となる。この問題もまたプラトンの想起説にその原型をみることができる。

それはア・プリオリ(先天的)の問題であり、生得(せいとく)観念(デカルト)、ア・プリオリな認識(カント)のうちに継承された。

ヘーゲルの『精神現象学』(1807)は、忘却された意識の経験を想起することとして展開された。

ハイデッガーはア・プリオリの問題を存在論のうちで、存在の先行的了解として展開した。
update:2009年12月12日